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宇土城主・小西行長は豪商の家に生まれましたが,のちに豊臣秀吉に取り立てられ,大名まで出世した珍しい経歴の持ち主です。またキリシタン大名としても有名で,生涯その信仰を貫きました。
このページでは,宇土に縁の深い小西行長の生涯を紹介します。
行長は永禄元年(1558)頃,大阪・堺の豪商小西隆佐(立佐)の子として京都で生まれました。 両親の影響で幼い頃にキリスト教の洗礼を受けたといわれており,洗礼名は「アゴスチノ」と記録されています。
ここでは,小西行長の生い立ちを紹介します。
岡山城主・宇喜多直家に仕えた後,天正8年(1580)頃から父隆佐と共に豊臣秀吉に重用されます。天正10年(1584)には瀬戸内海に浮かぶ小豆島(香川県)や室津(兵庫県)の管理を任されました。
ここでは,小西行長が肥後に入る以前の出来事を紹介します。
秀吉に宇土・八代・益城など肥後国の南半分(約15万石)を与えられた行長は,まず西岡台(宇土市神馬町)にあった中世宇土城(元は名和氏居城)へ入りますが,まもなく新しい宇土城の築造を開始しています。
ここでは,小西行長が肥後半国の大名になってからの出来事を紹介します。
文禄元年(1592)に始まった文禄の役では,対馬領主・宗義智と共に第一軍として朝鮮へ出陣しました。行長たちの軍は漢城(現ソウル)を陥落するなどの活躍をみせますが,その後戦況はこう着しました。その間,行長・石田三成らが中心となり,和平交渉が進められます。
ここでは,小西行長の朝鮮出兵について紹介します。
慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の戦いでは,西軍の将として参戦し奮戦しました。しかし,裏切った小早川秀秋らの攻撃により西軍は壊滅し,関ヶ原の戦いは徳川家康を総大将とする東軍の勝利で終結しました。
ここでは,小西行長の関ヶ原の戦いについて紹介します。
伊吹山中に逃れた行長でしたが,関ヶ原の庄屋・林蔵主に捕らえられてしまいます。その後大津の護送され,京都の六条河原において処刑され,首は三条河原に晒されました。
ここでは,小西行長の最期について紹介します。